【自分をみつめる】思いどおりの身体?
【人間関係】声から感じる直感
【つれづれ】手を当ててみると・・・
【つれづれ】匂いのあれこれ
【つれづれ】知らないことを知っている
【人間関係】は、つまり自分との関係
人はだれでも自分のことを認めてほしい。
否定されたくはない。
うん、その通り。
ただ、それが過度になってしまうと、
認めてほしい、の思いが強すぎると、
人に認めてもらうための行動、になってしまって、
自分の気持ちを押し殺したり、人のことをおとしめたり、
自分を犠牲にして行動したり、
なんだかしんどいことになってしまう。
そして、それがずーっと長く続いていると、
自分がそうしている、ということにも気付かず、
どちらかというと、
自分は自分らしく行動しているだけ、
これが自分のありのままです、と思ったりして、
そうなると、もうなかなか軌道修正が難しい。
ただ、
なんでこんなしんどいんだろうなぁ、とか、
どうしてまわりは分かってくれないんだろうなぁ、
自分はこんなに頑張ってるのになぁ、とか、
息苦しさは強かったり。
うん、そうだよね。しんどいよね。
自分をいじめてるようなものだものね、
無意識にいじめてるから、いじめそのものにも気づきにくいね。
だから、もし他人から指摘されると、
あの人はなにを言ってるんだろう、失礼な人だ、
自分はこんなに頑張ってるのに、それを否定するのか、
と、腹を立てたり、悲しくなったりして。
もしくは、ある日なにかがきっかけで気づくかもしれない。
もしくは、人に言われたことが、しばらく経って腑に落ちるかもしれない。
こればっかりは、まわりが変えようとしても、
自分がそのタイミングでないときには、なかなか入ってこないもの。
でも、なんだか違和感を感じていたら、
まわりが自分を、自分の努力を認めてくれない、と
腹を立てたり、悲しくなったりするのなら、
きっといつか、そういうタイミングがくるのだと、
そういう性質のものなのだ、と知っておくといいかもしれない。
自分はそんなことない、
自分に関しては、それとは関係ない?
うん、そうかもしれないね。
でも、そうじゃないかもしれないよ?
どちらかは、いつか振り返ってわかるかもしれないから、
いまはただ、これを読んだことが、
ひとつのタイミングだと思って、
頭のどこかに置いておいてもらえたら、と。
【病気になったとき】新しい体とつきあう
たとえば、脳卒中になって手足が麻痺したら。
人によって、その症状はさまざまではあるけれど、麻痺した身体に「なじむ(なれる)」ことが第一歩のように感じる。
ある日突然、動かなくなる身体。手が、足が、思い通りに動かない。頭がどこかぼんやりして集中できない。うまく話せない。口が動きにくい。そんな色々な症状があらわれて、頭が混乱してしまう。気持ちが落ち着かず、感情が高ぶったり沈み込んだりしてしまう。
それはまわりの親しい人、家族も同じで。
がんばれがんばれ、と励ましたり、ゆっくりでいいよ、無理しないでいいよ、と慰めたり、なんて声をかけたらいいか迷って悩んだり。
そんなとき。
まずは、いったん「症状」を持った身体を、心を、あるがまま、受け入れてみる。
よく「障害受容」という言葉が使われるけれど、すこし違う。
健康だったときの自分の立ち位置で、「障害」という『やっかいごと』を引き受ける、といった何だか大きな負担を背負わされるような、マイナスがひたすら続くイメージではなく、ただ、自分が新しい身体と心になったのだと、ただ、そうなのだ、と、事実として認識する。
健康だった過去の自分と比べるのではなく、「障害」を背負った未来の自分を歎くのではなく、ただ、いま現在の自分がそうである、と事実だけをみること。
それさえできれば、ある意味、そこから先は何があっても大丈夫だと思える。
症状が、ある程度の期間を経て改善していくものであれ、ずっと付き合っていくものであれ、病気になって、症状がでたときに、肚を決める、ことができるかどうかは、とても大きい。
思い通りに動かない身体。昨日まで動いていたのに。悲しんだり、絶望したり、悔やんだり、怒ったり。感情はどうしたって湧いてくる。湧いていい。でも、そこに留まらない。留まりそうになったら、そういう自分に気づくこと。
感情に身を委ねず、事実を見る。
感情に捕われて動けなくなると、過去の自分、動けていた自分、健康だった自分の意識と、いま現在の(症状のある)自分との乖離で、頭も身体も混乱する。
まずは、いまの自分はこうなのだ、と
ただあるがままに自分を感じること、
そこから始まるのだと思う。
そうして、そこから次にどうしていくのか、を考えられるのだと思う。