haru-kanaのブログ

会社員→リハビリ職→→なんでも来いのセラピストを目指す

【病気になったとき】新しい体とつきあう

たとえば、脳卒中になって手足が麻痺したら。
人によって、その症状はさまざまではあるけれど、麻痺した身体に「なじむ(なれる)」ことが第一歩のように感じる。

 

ある日突然、動かなくなる身体。手が、足が、思い通りに動かない。頭がどこかぼんやりして集中できない。うまく話せない。口が動きにくい。そんな色々な症状があらわれて、頭が混乱してしまう。気持ちが落ち着かず、感情が高ぶったり沈み込んだりしてしまう。

それはまわりの親しい人、家族も同じで。

がんばれがんばれ、と励ましたり、ゆっくりでいいよ、無理しないでいいよ、と慰めたり、なんて声をかけたらいいか迷って悩んだり。

 

そんなとき。
まずは、いったん「症状」を持った身体を、心を、あるがまま、受け入れてみる。

よく「障害受容」という言葉が使われるけれど、すこし違う。

 

健康だったときの自分の立ち位置で、「障害」という『やっかいごと』を引き受ける、といった何だか大きな負担を背負わされるような、マイナスがひたすら続くイメージではなく、ただ、自分が新しい身体と心になったのだと、ただ、そうなのだ、と、事実として認識する。

 

健康だった過去の自分と比べるのではなく、「障害」を背負った未来の自分を歎くのではなく、ただ、いま現在の自分がそうである、と事実だけをみること。

 

それさえできれば、ある意味、そこから先は何があっても大丈夫だと思える。

症状が、ある程度の期間を経て改善していくものであれ、ずっと付き合っていくものであれ、病気になって、症状がでたときに、肚を決める、ことができるかどうかは、とても大きい。

 

思い通りに動かない身体。昨日まで動いていたのに。悲しんだり、絶望したり、悔やんだり、怒ったり。感情はどうしたって湧いてくる。湧いていい。でも、そこに留まらない。留まりそうになったら、そういう自分に気づくこと。
感情に身を委ねず、事実を見る。

感情に捕われて動けなくなると、過去の自分、動けていた自分、健康だった自分の意識と、いま現在の(症状のある)自分との乖離で、頭も身体も混乱する。

 

まずは、いまの自分はこうなのだ、と
ただあるがままに自分を感じること、
そこから始まるのだと思う。

 

そうして、そこから次にどうしていくのか、を考えられるのだと思う。

 

f:id:haru-kana-h:20170425202207p:plain