【病気になったとき】痛みがあるとき
どこかが痛いとき、それが慢性的に続くとき、痛みに気持ちをフォーカスすることで、
痛み→不快(感情)、のルートに意識が集中してしまい、痛みを客観的にとらえることが難しくなったりする。
でも痛いんだから仕方ないじゃないか、という声も聞こえてきそうだし、痛みそのものは確かに今その時点では事実なので、それを否定するものではないんです。
そうではなく、自分のからだを痛みがある体、として捉えることで、痛み以外の大部分のからだ、というところを見過ごしてしまったりするということ。
そして、自分のからだを痛い体、としてではなく、痛みも持っている、痛くないところもある、いろんな要素をもっている体、というふうに視点をシフトすること。
痛いなぁ、ちょっと深呼吸してからだを緩めてみよう、そうしたら体はどう感じるかなぁ、とか、イライラしてるとますます痛いなぁ、じゃあ、そもそも何でいらいらしてるんだっけ、イライラの元をいったん考えるのをやめてみよう、とか、痛みそのものではなく、それ以外に視点をうつしてみることで、できることはたくさん実はあって。
できることがあるんだ、と知ることが、痛みがあったらどうしようもない、我慢するしかないのか、薬を飲むしかないのか、という思いから、選択肢を増やすことが出来る。
進む道はいくつもあるのだ、と知るだけでも、かなり生きやすくなるんじゃないかな、と思う。
やったことないから分からない、やろうと思ったけどうまくいかない。そんなときは、
近くにいる、そんなことを知ってそうな人、実践してそうな人を見つけて話を聞いてみるのもいいかもしれない。
いまはいろんな情報がありすぎて、逆に自分に合っている情報を探し、選ぶことが難しくもあるけれど、でも、あきらめずにアンテナをはることが、そこに近づく手だて。
良さそうと思うことをやってみて、自分のからだや気持ちがどう感じるか、合わなければ無理せず、次の方法を試してみてもいい。
無理は禁物。
ただ、自分のからだや心の声に耳をすませること。
【人間関係】親との関係
医療福祉関係の仕事をしていると、会社勤めをしている頃に比べると、はるかに多くのご家族と知り合うし、家族って、ほんとうに一つとして同じものはなく、それぞれ特徴をもっているなぁと実感する。
特に、病気や障害といった、人生の中でも日常とは異なる場面で立ち会うことになるので、それまでの家族のあり方、関係性とかがよりはっきりと見えてくるのかもしれない。
そんな中で、夫婦の関係性、親子の関係性、他者との関係性、人生の価値観、など、さまざまな面が浮き彫りになってくるけれど、親子の関係性は、自分のことを考える上でも、とても考えさせられることがある。
親は、子供が幼い頃には、ある意味絶対的な存在であるし、子供の価値観、社会や他者との関係性を築く上で、とても重要な影響を与える存在だ。
そして、子供が大人になる過程で、今度は自分の価値観、人生の生き方を再構築していき、自分にとっての生き方、自分らしさを自覚して、親との人間関係も再構築しながら生きていくのだと思う。
その関係性が、健全なものだと問題ないのだろうけれど、
多くの場合、無意識に、無自覚に、悪意なく、逆に当人は良かれと思って、相手を抑圧し、コントロールしてしまっている。コントロールそのものが、全て悪いわけではないけれど、相手を、その人らしさ、その人の本質を何らか抑圧し、歪めてしまうものであるのならば、それは、好ましくない関係を生んでしまう。
そして、多くの場合、家族だから、親だから、子供だから、といった言葉で、その好ましくない関係を我慢しなければならない、継続しなければならない、反抗してはならない、といった考えに自分や相手を制限してしまうことも多い。
自分の好き勝手に生きたらいい、ということではなく、親や子供のことなんて気にしなくていい、ということでもなく、ただ、自分の尊厳を、自分の本質を歪め、下げてしまう関係性であれば、それは見直す必要があるということだ。
そして、再構築しようとしても、それが難しい場合には、いったんその関係性から離れることも、時には必要である、ということだ。
家族、という自分の存在そのものが生まれた場所を離れることは、絶対的な安心を失うことのようで恐さも伴うけれど、いまの時点での家族そのものが、安心の場ではないのならば、そこに居続けることで、言葉にならない不安を生み出してしまうかもしれないから、自分を信じて、離れてみることも必要だ。
相手が変わるかどうかは、相手の問題であるのだから、こちらがどうすることもできない。
だから、まずは自分自身を信じて動くこと。
自分を信じることができれば、本当はなんだって大丈夫だと思う。
【健康に年を重ねる】健康・七転び八起き
人に健康かと聞かれると、
病気じゃないから健康と答えても、
どこか気になるところはあるかと聞かれると、
それが頭痛持ちで、とか、実は生理痛がひどくて、とか、
夜眠れなくて、とか、肩が痛くて、腰痛で。。。と
いろいろ不調が出てくることが多い。
もしくは、症状としては気になっていなくても、
なんだかすっきりしないなぁ、
元気いっぱい!というわけじゃないなぁ、とか。
なんだかだるい気がするけれど、まぁ生活できてるし、
どこが悪い部分があるわけじゃないし、とか。
そして、
それを、そのままほっとく人、とりあえず生活が忙しいし
なんとかなるだろう、誰に聞いていいかわかんないし、となる人と、
ネットだ本だ、専門家だ、と情報を探す人、
またはとりあえず自分の生活を見直してみようとする人、いろいろいて、
それぞれのやり方で、よりよい方向に進むといいなと思ってる。
自分自身まだまだ試行錯誤だし、これさえしておけば大丈夫!ということはないし、
結局は本人が納得していないと、どんな情報があっても取り入れることはないと思うから。
だから、語るときはあくまで自分にとってそうだった、という形。
それをどうとるか、今どう感じるか、は、それぞれ。
相手の受け取り方をどうこうしようとは思わなくて、
ただ、もし取り入れてうまくいくといいなぁ、と願うだけ。
いざ切羽詰まってこないと、なかなか本気で取り組まなかったりするけど、
小さなサインを見逃さず、向き合うことが本当に大切なんだなぁと大人になってきてようやく気づく。
自分も七転び八起きな生き方だったりするけれど、
だからこその今があるんだなぁと思ったり。
七転びが百転びになっても、百一起きになるように。
【自分を見つめる】普通って何?
普通、常識、当たり前、一般的、世間的に。。。
すべて、ありそうで実は一人一人の中にある思い込み、盲信。
自分を安心させ、言い訳をし、時に人を縛り付ける、罠。
自分の中でその自覚があって、自分を制限し、安心させるための言い訳に使うだけならまだしも、それだけだと自分が不安なために、それを人にも押し付けることで自分を安心させようとすると、百害あって一利なし。
でも、人に押し付けてくる人は、その自覚もないので、こちらがはっきり言わないと、気付かないし、はっきり言ったとしても、自分の存在が否定されたように感じて、逆に怒りをぶつけられたりもする。良かれと思って言ってるのに、という怒りで自分の正当性を何とか保とうとする。
そうすると、こちらもはっきり言うことがためらわれてしまい、我慢してしまうことも多いのだけど、それでは永遠に通じない可能性だって高い。
そうして自分が永遠に我慢して、自分を殺すのか?ということ。
はっきり言えないなら、何とかその関係から離れることも大切。
誰かの妄想でしかない普通や常識や世間に従ったって、人の数だけある妄想にどこまでも自分を合わせるだけで、それは終わりがない。
自分の人生が今日で終わりだとしても、その妄想に従うのか?と考えたら、やるべきことは見えてくる。
でも実際には明日も明後日も生きていくじゃないか、って、自分をごまかしてはいけない。今日を積み重ねることが一生になるのだから、今日を自分らしく生きることが、自分の人生を生ききること。
逆に、昨日や明日のことは気にしなくていいのだから、
今日だけに集中すること。
そうしたら、いまある関係もかなり変わってくるはず。
【自分をみつめる】落ち込んだときには
どうしようもなく落ち込むことってある。
人間だもの。
あぁ、自分ダメだなぁ、何やってんだろうなぁって、昨日までふつうにしていたはずのことさえ、なんだかとんでもなく出来てない感じがして、それは底なし沼に沈んでいくような感じで、もう上がれないんじゃないだろうか、とふと思ってしまう感じ。
あれって、なんだろうね。
誰かに叱られたとか、誰かのすごい才能や技術を見てしまった、とか、
特に何かがあったわけじゃなくても、何てことない、ある時ふとやってくる底なし沼感覚。
そんなときは、あぁ、またやってきてるなぁ、とただ眺めてるようにする。
以前は、そこに感情も持って行かれてしまって果てしなく落ち込むこともあったけど、
そうすると、ほんとに底なし沼だから。
底なし沼がやってきたーと、ただ認識する、ただ観察する、
ようするに客観視する、ということ。
これって、ふだんは何でもないことだけど、落ちちゃったときには、なかなか気づけないことでもあって、ふだんから、底なし沼にははまらないぞ!と心のどこかにインプットしておくと、それだけで、いざという時に気づいて、あぁ、そうだった、と楽になれることだったりする。
自分の感情にとらわれないこと、これ、結構大事。
感情を無視する、とか、
鈍感になる、とか
そういうことではなく、
感情=自分すべて、ではない、ということ。感情はあくまで自分のほんの一部だということ。
感情は、環境や状況や経験で、いくらでも変化するもの。つまり、絶対的なものではないので、そこにとらわれないことが大切だなぁと。
どうして底なし沼感覚になるのか、は、
たぶん、自分のことを自覚しろ、と、
自分を認識して、次に行けよ、と
そんなサインなのかもなぁ、と
思ったりしてる。
がんばれ、自分。大丈夫だぞ!自分。
ゆるやかに行こう、って。
【生活あれこれ】家の掃除はココロの掃除
・・・というのは本当だと、最近また改めて実感した。
もともと、そうきれい好きというわけではなく、ちょっとした汚れはまとめて掃除でいいやーと思っていた方ではあるけれど。自分が気にならないと思っていた範囲のことでも、いざ掃除をしてきれいになるとやっぱり気持ちいいし、生活も心地よいものになる。
掃除の優先順位が高くないタイプは、ふだん忙しいとどんどん後回しにしてしまい、それが積もり積もると本がグチャッと山積み!とか、封書入れに封筒がパンパンになってる、とか、頻繁に使う書類が机に出しっぱなし、という、そりゃ死にはしないけどQOL(生活の質)は下がるよねー的な状況になりやすい(←私)。
それがまた、少しずつ少しずつそうなっていくので、危機感も抱きにくいというか、何となく感じていても、まだ大丈夫かなーと言い訳してみたり。
でも、それを片付けた時のすっきり感たるや!
雑然とした状態とのギャップに、そりゃやる気も作業効率の落ちるよなーと実感する。
部屋の中の状態がそのまま持ち主の頭の中の状態だ、と聞いたりするけれど、環境が無意識のうちに人に与える影響は本当に大きい。
人は自分が思うこと考えることはすべて意識してやっている、自分が自分をコントロールしていると考えがちだけれど、こんなささいなこと(=掃除)で自分の気分や意欲が変わるのだから、部屋だけでなく、例えば住んでいる町、働いている職場、よく話す仲間、家族、通勤途中で見たり会ったりする人々、それら全てが意識的だけでなく無意識にも何らかの形で影響を与えていて、その結果自分が感じ、考え、行動している、としたら。
すこしでも、自分が心地よく動けるよう、自分がこうありたいと思うように行動できるよう、環境に働きかけることが大切だと思う。
働きかける、というのは、積極的に環境に対して何かをする(例えば掃除)だけでなく、自分に好ましくない環境からは距離を置くことも時には必要。
で、今回の掃除については、自分が楽に取り組めるような工夫をすることが大事だと実感。
最近流行り(?)のナチュラルクリーニングを取り入れ(汚れが力いらずで楽に落ちるので面白い!)、あとはデスク・テーブルの上に物を置かない(使ったら全て片付ける)、各部屋に気づいたときにすぐ使えるよう掃除グッズを置く(スプレーと布だけど)、の2点をまずは実践。
そのくらいならそれほど面倒でもないし、小さな労力で大きな成果(見た目すっきり)となるので、やっていてやる気が持続しやすい。やっぱり人は自分がしたことによい反応(効果)がないと、なかなか続かないもの。
いかに自分を「ノせ」ていくのかも、挫折しないポイントかもしれない。
まずは1、2ヶ月続けてみて、またいろいろ工夫してみよう。
【健康に年を重ねる】自分をメンテナンスしてくれるプロを探す
肩凝り、腰痛を持っている人はとても多い。
仕事柄、何らかの不調をもっている方と関わるから、ということももちろんだけど、
スタッフ、知り合い、など、幅広く、程度の差はあれ、症状をもっている人が多いなぁと実感する。
生活していると、どこかしらに無理をしたり、無理をさせているということにも気付かずにいると、体に症状として分かりやすくでてくるサインなんだろう。
そこで生活の見直しをすると、自然と落ち着いてくるのだけど、そもそも無理していることに無自覚だと、対症療法で済ませてしまいやすく、さらに痛みがでてくるか、別の場所に痛みや何らかの症状が出てくるか。。。
なので、かなり多くの腰痛や肩凝りは、明らかな機能的障害で痛みが生じている場合は別として、生活(生き方、考え方も含めて幅広く)を見直すことで、かなりの部分は解消されていく。
いまは病院やクリニック、整骨院だけでなく、町中あちこちに整体やら揉みほぐし、などのお店ができた。玉石混合でもあるので、その見極めも大切だけど、
まずは、施術者に会ったとき、体に触れられたとき、頭じゃなくて、どう感じたか、の直感は大概正しいので、知り合いが勧めたからとか、1回だけで止めたら悪い?からとか、頭で言い訳を考えず、直感を信じてやる・やめる(続ける)を決めるといい。
本当に「うまい」ところは、施術者も技術も雰囲気も、すべてが心地好いと感じるはずだから。(そうでないと、どこか無理を生じやすい)
そういうところは、健やかな自分にリセットするよう導いてくれるし、ふだんの生活も過ごしやすくなるはず。
いざ痛くなってから探すのは大変かもしれないので、ふだんから見つけておいて、悪くなる前のメンテナンスをしておくと結果的にお金もかからず(悪化してからだと良くなるまでに時間も費用もかかってしまう)、心地よく日々を過ごすことができる。
・・と、いまなら力説したい位なんだけど、
それも自分がいろいろ試行錯誤したからこそ、なので、あくまで、経験者談として、です。
オギャーと産まれてから死ぬまで付き合うその体。
大切につきあわないとね。