haru-kanaのブログ

会社員→リハビリ職→→なんでも来いのセラピストを目指す

【つれづれ】認知症 忘れるということ

仕事がら、認知症の方と接する機会も多いです。
認知症と診断まではされなくても、年単位でお付き合いしていく中で、少しずつ変化されていく様子を間近でみることは数多くあり。
 
いろいろな要因が挙げられているし、複合的なものだとも思うので、絶対的な原因というものはないのかもしれないけれど。
ただ、自分自身の枠をつくって、いつの間にか固定化してしまっていることが、要因の一つなんだろうなと感じています。
 
変化を好まず、これまでの自分のやり方や考え方、人との関係性など、生活そのものが自分が決めた枠の中だけにおさまってしまい、流動性がなくなると、せき止められた水が同じところでぐるぐると回りつづけ、その透明度も勢いも減退してしまう。
 
それは始めは目に見えないほど、わずかな変化で、次第次第に大きくなり、気づいたときには戻ることが難しいところまでやってくる
 
話が通じない、怒りっぽい、同じことを何度も繰り返す、といった言動も、認知症までには至らなくても、同じように自分を制限していった過程で、気づかぬうちにそうなっていくのだろうなと。
 
人は記憶する生き物で、記憶が自分自身を認識する拠り所だから、それを失っていく、忘れる、ということはどれほど恐いことだろうと思う。自分が自分でなくなっていくような、足元にポッカリ穴が空いて真っ暗な無の中に引き込まれるような、そんな恐怖なのだろうか。
 
若くて健康なときには想像もしなかったこと、想像さえ難しいような状態、だからこそ忘れていく人を相手に、どうして覚えていないんだと責めたり、何度も言わせるなと怒ったりするご家族も。ご家族にとっても、父や母のこれまでの姿が記憶にあるだけに、それを失っていく様子をみるのは辛いだろう。だからこそ、きつく言ってしまったり。
 
間に他人が入った方が、お互いにすこし距離をおいて接することができることもある。
 
そして、少しずつ新しい関係性を築いていく。忘れ行く人と、忘れ行くその姿がその人自身なのだと受け入れる側と、お互いに関係を作り直していく。そしてそれは固定的なものではなく、忘れ行く過程が進んだなら、またそこに合わせて関係性を変化させていく。流動性をもつ関係。
 
固定的だったからこそ、流動性をもっていく。
 
水が留められていた場所から流れ出すように。
 
留まること、固定化されることは、人のあり方に合っていないのだろうなと。動くこと、流れることそのものが生きていること。そんな風に思ったり。
 
なんだかまとまりないけれど、備忘録的に。
 

f:id:haru-kana-h:20170512221352p:plain