【つれづれ】認知症 忘れるということ
仕事がら、認知症の方と接する機会も多いです。
いろいろな要因が挙げられているし、複合的なものだとも思うので 、絶対的な原因というものはないのかもしれないけれど。
ただ、自分自身の枠をつくって、いつの間にか固定化してしまって いることが、要因の一つなんだろうなと感じています。
変化を好まず、これまでの自分のやり方や考え方、人との関係性な ど、生活そのものが自分が決めた枠の中だけにおさまってしまい、 流動性がなくなると、せき止められた水が同じところでぐるぐると回り つづけ、その透明度も勢いも減退してしまう。
それは始めは目に見えないほど、わずかな変化で、次第次第に大き くなり、気づいたときには戻ることが難しいところまでやってくる 。
人は記憶する生き物で、記憶が自分自身を認識する拠り所だから、 それを失っていく、忘れる、 ということはどれほど恐いことだろうと思う。 自分が自分でなくなっていくような、 足元にポッカリ穴が空いて真っ暗な無の中に引き込まれるような、そんな恐怖なのだろうか。
若くて健康なときには想像もしなかったこと、 想像さえ難しいような状態、だからこそ忘れていく人を相手に、 どうして覚えていないんだと責めたり、 何度も言わせるなと怒ったりするご家族も。 ご家族にとっても、父や母のこれまでの姿が記憶にあるだけに、 それを失っていく様子をみるのは辛いだろう。 だからこそ、きつく言ってしまったり。
間に他人が入った方が、 お互いにすこし距離をおいて接することができることもある。
そして、少しずつ新しい関係性を築いていく。忘れ行く人と、 忘れ行くその姿がその人自身なのだと受け入れる側と、 お互いに関係を作り直していく。 そしてそれは固定的なものではなく、忘れ行く過程が進んだなら、 またそこに合わせて関係性を変化させていく。流動性をもつ関係。
固定的だったからこそ、流動性をもっていく。
水が留められていた場所から流れ出すように。
留まること、固定化されることは、人のあり方に合っていないのだろうなと。動くこと、流れることそのものが生きていること。そんな風に思ったり。
なんだかまとまりないけれど、備忘録的に。