haru-kanaのブログ

会社員→リハビリ職→→なんでも来いのセラピストを目指す

【人間関係】声から感じる直感

自分を動画で録ったとき、その声を聞くと、ふだん自分の耳で聞いている自分の声との違いに違和感を感じることがある。また、自分の話し方、声のトーン、表情、など
客観的に見て・聞くことで、自分が思っていた自分のイメージとの違いに驚くこともある。
いちばん長く付き合っているはずの自分が、実はいちばん気づいていない部分、が
見えてくる。
 
そして、違いに驚いたあと、実際客観的に見てみたときに、自分というその人はどんな人だろう、と第三者の視点でみてみると面白い。
 
ふだん、話しかけても無視されることが時々あるなぁと思っていたけれど、自分が思っていたより、相手に話し掛けの声や態度が伝わりにくそうに見えるなぁ、とか、話していると、なんだか同じことを確認されるなぁと思っていたけれど、分かったという合図(態度)が思っていたよりはっきりしてなくて、伝わってなかったから相手も不安だったんだなぁ、とか、コミュニケーションで感じていた不安やモヤモヤの原因が分かったりする。
 
また、自分はうまく話せないし、笑顔も固いし、と思っていたけれど、でもそのちょっとぎこちない感じが逆に信頼できる印象だなぁとか、助けてあげたいと思わせるなぁ、とか、声が低くて嫌だと思っていたけれど、やさしい印象を受けるかもしれないなぁ、とか、自分の欠点と思っていたことが、実は人から見ると好ましい点だった、ということもあるだろう。
 
逆に、なんとなく本心を出してなさそうだなぁ、と感じるなら、実際の自分はその時どうだったか思い出してみて、実際にそうだったのなら、隠しているつもりでも、人にはばれている、伝わっている、ということ。
 
人が人と話していて、なんとなく感じる、いい人だなぁ、とか、なんだか嫌だなぁ、とか感じる直感はかなり当たっていて、本人がどんなに隠そうとしても、よく見せようとしても、本来の姿は感じ取られるもの。
だから、自分らしさを正直にだすことは、コミュニケーションのストレスを減らす、とても大切なこと。
 
ただこの直感は、頭で「でもあの人は○○だから」と考えて直感を上書き(否定)してしまうこともあるので注意が必要。
 
表情はある程度ごまかすこともできてしまうけど、声はなかなか難しいもの。
声の質(美声かどうか、ということではなく、その人を表す質的な音、として)は、すべてを伝えているようにも思うから、その人が何を語っているか、という内容ではなく、その声はどんな声か、声という音をどう感じるかは、かなり正確にその人となりがつかめるんじゃないかと思う。
 
たぶんね。
 

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【つれづれ】手を当ててみると・・・

子供のころ、体のどこかをぶつけて痛くて泣いていると、母親が、ぶつけた場所に手を当てて、だいじょうぶ、痛いの痛いの飛んで行けーと、やさしくおまじないを唱えてくれた。そうすると、なんだか痛みもすこし楽になった気がして。手を当てて、やさしく言ってもらったことで、本当に大丈夫なんだ、と安心した気持ちになれた。
 
むかしむかし(薬やお医者さんにかかることが今ほど一般的ではなかったころ)は、それは一つの療法であり、いまでもお手当療法、として大切に受け継がれているけれど、ふだんの生活では、なんとなく、気のせい、気の持ちようだ、と思われている部分も多そうな気がする。
 
ぶつけて痛がっている大人に、同じようなことをしたら、苦笑されたり、恥ずかしがられたり、子供の時に感じたような、本当に大丈夫だ、という感覚には、なかなかなりにくいかもしれない。(もちろん、ある程度の関係性があった上で、だけど)
 
でも実は、手当てって、想像している以上の力があるんだと思う。
もちろん、手を当てるだけでも効果はあるけれど、当てる側が、ゆっくりした気持ちで、痛がっている相手が楽になる、と思いながら当てると、それはとても大きな力になる。
そして、大丈夫、と本当にそう思いながら伝えると、その言葉がさらに力になって、痛みを和らげてくれる。
 
痛み自体を、というよりも、痛みを感じている人自体を和らげてくれる感じ。
 
言葉も、本当におまじないの効果があって、大丈夫だと思いながら手を当てることも、とても不思議な力を持つ。
 
大人になって、いわゆる常識を知っていくと、なんだか馬鹿らしい、子供だまし、と思ってしまうようなことであっても、それが大昔から続いているようなものには、経験値として積み重ねられ、伝えられてきた、たしかな効力というものが在るんだ。
 
言ってしまえば、タダで出来ることだから、取り入れて損はないし、痛がっている人だけでなく、手当てをする側にとっても、相手とつながって自分もある意味力がでてくるものだと思うから、恥ずかしがらず、ぜひやってみることをおすすめ。
 
余裕がある時は?お手当する側がイライラしたり怒った気持ちで手当てをしてみたら、おだやかな思いやる気持ちでしたときとの、はっきりした効果の違いに、ちょっとびっくりするかもしれない。
 

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【つれづれ】匂いのあれこれ

匂いって、おもしろい。
香水やアロマや、人工的な芳香剤、タバコの煙、生活の中にはいろんな匂いがあるけれど、人本来がもっている匂い、的なものが、なんだか気になる。
お風呂にしばらく入っていません的な汗くささは、まぁ別として、明らかに鼻腔を刺激する!というわけではなく、でもなんだかその人が放つ匂い、のようなもの。
あれ、おもしろいなぁ。
実際にフェロモン的なほのかな匂いがする場合もあるけれど、鼻(嗅覚)ではなく、五感ぜんぶ、もしくは第六感的な、なんだか分からないけど感じる匂い、というもの。
 
タバコの匂いが、小さなトゲが大量に突き刺さる感じ、といった皮膚感覚、視覚的イメージで感じるように、ある人はやわらかくて甘い匂い、ある人は土っぽい、ちょっとお日様の匂い、ある人はちょっと硬そうな岩塩の匂い、といった感じ。
 
手ざわりや、視覚的なイメージや、味のイメージ、音、そして匂い。
うん、やっぱり五感ぜんぶから感じるもの。
 
それが匂いとして、感じるものなのかな。
 
一人ひとり違って、またそのときどきで変わったりもして。
自分がその人に感じている印象が影響している面もあるかもしれないけれど、通りすがりの人、すれ違うだけの人でも感じたりするので、それはどこかしらその人自身が放っているものを、自分のセンサーがどこかしら受信しているのかもしれない。
 
言葉だけじゃない、表情だけじゃない、行動だけじゃない、ただそこにいる、ただそこに在る、ということで感じるもの。
そういうのって、忙しくなったり、心に余裕がないと、感じていても意識に上らなくなりやすいけれど、そういうものこそ、生きていく上で、わりとたいせつなもの、かもしれない。
頭でっかちにならないよう、自分センサー(直感、直観といったもの)も、ふだんから意識しておくと、頭で困ったときに(考えてもドツボにはまるとき)ふとしたヒント、
道標、になると思う。
 
たぶんね。
 

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【つれづれ】知らないことを知っている

毎日顔を合わせてる家族やペット、職場の同僚やよく行くお店の人、日常の中に当たり前のように存在する人や物は、なんだかよく知っている気になっている。
 
初対面だと、相手がどんな人だろうかと少し気持ちのアンテナを張っているものだけど、だんだん慣れてくると、そのアンテナもつい感度を落としていたりする。
 
だいたいこういう人、と自分の中で決めつけてしまって、パターン的な関係になることも、気づくとあったりする。
その方が、日々を楽に力を抜いて過ごせるところもあるから、一概に悪いわけではないけれど、自分がそうしているということを自覚していないと、ささいなでも大切なことを見逃してしまうことも多い。
 
よく考えたら、自分のことだって全て知っているかどうか怪しいものなのに、自分以外の人やものを全て知っているなんてとんでもない。自分が知っているのは、自分が見て、聞いて、自分の中で判断して記憶している、ごくごく一部。相手には自分が知らない顔がたくさんある。
 
それは人でも、物でも、組織でも、仕事でも、すべて同じ。
よく知っている、けれど初めて知るかのように、関わっていくように。
アンテナ感度を頑張って高く保つ、というよりも、感度の性能を上げるよう普段から使いこなしていくことだろうなと思う。
サボって使わなくなって、たまに頑張って使おうとするから疲れてしまう。ふだんの生活で意識して使いつづけることで、感度もアップし、負担なく使えるようになる。
 
気づくことが増えると、自分にとっての選択肢も増えて、よりより関係性を作りやすくなり、それが好循環となっていく。
 
まずは、自分が知らないということを知ること。
そこから始まるし、そこに戻っていくなと思う。
 

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【人間関係】は、つまり自分との関係

人はだれでも自分のことを認めてほしい。
否定されたくはない。
うん、その通り。

 

ただ、それが過度になってしまうと、
認めてほしい、の思いが強すぎると、
人に認めてもらうための行動、になってしまって、
自分の気持ちを押し殺したり、人のことをおとしめたり、
自分を犠牲にして行動したり、
なんだかしんどいことになってしまう。

 

そして、それがずーっと長く続いていると、
自分がそうしている、ということにも気付かず、
どちらかというと、
自分は自分らしく行動しているだけ、
これが自分のありのままです、と思ったりして、
そうなると、もうなかなか軌道修正が難しい。

ただ、
なんでこんなしんどいんだろうなぁ、とか、
どうしてまわりは分かってくれないんだろうなぁ、
自分はこんなに頑張ってるのになぁ、とか、
息苦しさは強かったり。

 

うん、そうだよね。しんどいよね。
自分をいじめてるようなものだものね、
無意識にいじめてるから、いじめそのものにも気づきにくいね。

 

だから、もし他人から指摘されると、
あの人はなにを言ってるんだろう、失礼な人だ、
自分はこんなに頑張ってるのに、それを否定するのか、
と、腹を立てたり、悲しくなったりして。

 

もしくは、ある日なにかがきっかけで気づくかもしれない。
もしくは、人に言われたことが、しばらく経って腑に落ちるかもしれない。

 

こればっかりは、まわりが変えようとしても、
自分がそのタイミングでないときには、なかなか入ってこないもの。

 

でも、なんだか違和感を感じていたら、
まわりが自分を、自分の努力を認めてくれない、と
腹を立てたり、悲しくなったりするのなら、
きっといつか、そういうタイミングがくるのだと、
そういう性質のものなのだ、と知っておくといいかもしれない。

 

自分はそんなことない、
自分に関しては、それとは関係ない?

 

うん、そうかもしれないね。
でも、そうじゃないかもしれないよ?

 

どちらかは、いつか振り返ってわかるかもしれないから、
いまはただ、これを読んだことが、
ひとつのタイミングだと思って、

頭のどこかに置いておいてもらえたら、と。

 

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【病気になったとき】新しい体とつきあう

たとえば、脳卒中になって手足が麻痺したら。
人によって、その症状はさまざまではあるけれど、麻痺した身体に「なじむ(なれる)」ことが第一歩のように感じる。

 

ある日突然、動かなくなる身体。手が、足が、思い通りに動かない。頭がどこかぼんやりして集中できない。うまく話せない。口が動きにくい。そんな色々な症状があらわれて、頭が混乱してしまう。気持ちが落ち着かず、感情が高ぶったり沈み込んだりしてしまう。

それはまわりの親しい人、家族も同じで。

がんばれがんばれ、と励ましたり、ゆっくりでいいよ、無理しないでいいよ、と慰めたり、なんて声をかけたらいいか迷って悩んだり。

 

そんなとき。
まずは、いったん「症状」を持った身体を、心を、あるがまま、受け入れてみる。

よく「障害受容」という言葉が使われるけれど、すこし違う。

 

健康だったときの自分の立ち位置で、「障害」という『やっかいごと』を引き受ける、といった何だか大きな負担を背負わされるような、マイナスがひたすら続くイメージではなく、ただ、自分が新しい身体と心になったのだと、ただ、そうなのだ、と、事実として認識する。

 

健康だった過去の自分と比べるのではなく、「障害」を背負った未来の自分を歎くのではなく、ただ、いま現在の自分がそうである、と事実だけをみること。

 

それさえできれば、ある意味、そこから先は何があっても大丈夫だと思える。

症状が、ある程度の期間を経て改善していくものであれ、ずっと付き合っていくものであれ、病気になって、症状がでたときに、肚を決める、ことができるかどうかは、とても大きい。

 

思い通りに動かない身体。昨日まで動いていたのに。悲しんだり、絶望したり、悔やんだり、怒ったり。感情はどうしたって湧いてくる。湧いていい。でも、そこに留まらない。留まりそうになったら、そういう自分に気づくこと。
感情に身を委ねず、事実を見る。

感情に捕われて動けなくなると、過去の自分、動けていた自分、健康だった自分の意識と、いま現在の(症状のある)自分との乖離で、頭も身体も混乱する。

 

まずは、いまの自分はこうなのだ、と
ただあるがままに自分を感じること、
そこから始まるのだと思う。

 

そうして、そこから次にどうしていくのか、を考えられるのだと思う。

 

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【病気になったとき】痛みがあるとき

どこかが痛いとき、それが慢性的に続くとき、痛みに気持ちをフォーカスすることで、
痛み→不快(感情)、のルートに意識が集中してしまい、痛みを客観的にとらえることが難しくなったりする。

 

でも痛いんだから仕方ないじゃないか、という声も聞こえてきそうだし、痛みそのものは確かに今その時点では事実なので、それを否定するものではないんです。

 

そうではなく、自分のからだを痛みがある体、として捉えることで、痛み以外の大部分のからだ、というところを見過ごしてしまったりするということ。

 

そして、自分のからだを痛い体、としてではなく、痛みも持っている、痛くないところもある、いろんな要素をもっている体、というふうに視点をシフトすること。

 

痛いなぁ、ちょっと深呼吸してからだを緩めてみよう、そうしたら体はどう感じるかなぁ、とか、イライラしてるとますます痛いなぁ、じゃあ、そもそも何でいらいらしてるんだっけ、イライラの元をいったん考えるのをやめてみよう、とか、痛みそのものではなく、それ以外に視点をうつしてみることで、できることはたくさん実はあって。

できることがあるんだ、と知ることが、痛みがあったらどうしようもない、我慢するしかないのか、薬を飲むしかないのか、という思いから、選択肢を増やすことが出来る。


進む道はいくつもあるのだ、と知るだけでも、かなり生きやすくなるんじゃないかな、と思う。

 

やったことないから分からない、やろうと思ったけどうまくいかない。そんなときは、
近くにいる、そんなことを知ってそうな人、実践してそうな人を見つけて話を聞いてみるのもいいかもしれない。

いまはいろんな情報がありすぎて、逆に自分に合っている情報を探し、選ぶことが難しくもあるけれど、でも、あきらめずにアンテナをはることが、そこに近づく手だて。

 

良さそうと思うことをやってみて、自分のからだや気持ちがどう感じるか、合わなければ無理せず、次の方法を試してみてもいい。
無理は禁物。


ただ、自分のからだや心の声に耳をすませること。

 

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